丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で開催中の中園孔二回顧展「ソウルメイト」に行ってきた。NHKのアート番組「アートシーン」で本展の紹介をしていたのを観て魂をぶち抜かれてしまったので、どうしても行かずにはいられなかった。
京都の自宅から青春18きっぷを使い電車を乗り継ぐこと、5時間。やっと到着した丸亀市猪熊弦一郎美術館は、丸亀駅の目の前にあった。寂れた地方都市には似つかわしくない現代的な建物で驚いた。
NHKの番組のどういうところに魂をぶち抜かれたかというと、中園孔二という人に、だと思う。確か高校時代にいきなり絵を描き始め、東京藝術大学へ進学、卒業後、がかとなり、自然豊かな高松市に移住して絵を描き続けた。残念ながら中園は2015年に25歳という若さで他界している。
中園の作品は近くで見たり、遠くで見たりすると見え方が違ってくる作品がある。小さい無数の顔が描かれた絵だと思っていたら、遠くからみると一つの大きな顔だったりする。さらには、描かれた線がとてもカラフルで、色もすごく素敵だ。たくさんの色を使っているのに、うるさく感じない。
彼の絵は言ってみれば抽象画で人の顔のモチーフがたくさん現れる。笑っていたり、泣いているように見えたり、無表情だったりする。その顔がじっと自分を観ているようで思わず笑ってしまったり、どこか怖くなったりするのだ。だから、絵から離れられなくなってしまう。まるで中園本人に心をぎゅっと掴まれてしまったかのように。
鷲田清一は『想像のレッスン』(2019)の中でこう書いている。
顔の出現はひとつの強力な磁場を作る。顔が眼のまえに現れたとき、わたしたちはそれに引きよせられるか、それを斥けるかする。ときに睨み返すこともあるだろう。とにかく無視することはできない。そういう力が顔にはある。
鷲田の言う通り、そこは強力な磁場だった。中園作品における顔は具体的な誰かの顔ではなく、デフォルメされたニコちゃんマークのような顔だったり、鉛筆がきでサラッと書いたような顔だったりするのだが、それがまた、何かを伝えているようでもある。
中園は印象的な言葉を残している。
僕が何かひとつのものを見ている時、となりで一緒になって見てくれる誰かが必要なんだ。
だから、中園は誰か「ソウルメイト」を必要としていたとも思える。でも、絵を観ていると、その逆で、「理解されてたまるか」というような感じも受けてしまう。観るものが近づいていくのを拒絶しているかのように。そんなふうに観るものは否応なしに中園からの何かをうけとってしまうのだ。
そんなふうに絵を観ていたら、ゆうに2時間を超えていた。絵の前にいつまでもいたい。まるで自分が磁石になってしまったかのように、展示室内を何周も歩いた。巡回はしないというから、次いつ観られるかわからないということもあるだろう。
絵というか、アートが素晴らしいと思うのは、作品を通して、作家その人に出会えるからだ。わたしはそこで言語の要らない会話をする。言葉ではなく、ただ感じて考えて理解しようと努めることで、自分が少し変化する。誰かと出会い、自分が変わること。それこそが生きる喜びなのだ。
中園孔二 「ソウルメイト」