日本語教師わかばの教え方がうまくなるブログ

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村上春樹のカキフライ理論で書く自己紹介

今日までプロライター大阪道場に10回通った。

長い道のりだった。

そのふりかえりとして、

第一回の課題として書いた自己紹介を

今日はのせます。

 

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母はカキフライが好きだった。

 

 わたしが生まれて育った滋賀の田舎では、牡蠣というのは身近な食材ではなかった。日々の食卓には鮎とかごりとかが並び、ハレの日には鯉のアライが並んだ。わたしも5つ下の弟もそういった琵琶湖でとれる淡水魚が好きではなかった。ただ、父はそういった魚が好きだった。

 

 わたしたち家族は月に一度、車で30分くらいのところにあるショッピングセンターへ行き、そのなかのレストランで昼食を食べた。わたしはいつもハンバーグを食べた。母はいつもカキフライを食べていた。「変なものが好きなんだな」と思っていた。

 

 大学に入って京都で生活するようになるまで牡蠣など口にしたことはなかった。一度も食べたことがないくせに、なぜか「あんなもの、食べたくない」と思っていた。

 

 結婚する前に、夫とわたしと母の3人でファミリーレストランで食事をした。その時も母は、迷うことなく「カキフライ」を注文したのだった。その時はわたしも「カキフライ」を注文した。いつともなく、牡蠣はわたしの好物の一つになっていたのだ。

 

 高校生の頃、カキフライも知らない人間だった。地元のものを食べ、地元の人と遊ぶだけだった。なにしろ当時はインターネットすらなかったのだから。「田舎には何もない」そう感じて高校卒業と同時に地元を出た。

 

 京都、メキシコシティ、大津、中国、そしてまた京都へ。住む場所を変え、旅もたくさんしてきた。旅が好きだった。自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の頭で行き先を決める。それを繰り返すことで、自分が強くなっていくような錯覚に陥った。

 

 たくさんの人に出会ってきた。その間もずっと父と母は地元で生活をしてきた。それを当たり前だと思っていた。一度母は飛行機に乗るわたしを空港まで見送ってくれた。伊丹空港だったと思う。展望台から飛行機を眺めながら「お母さんも連れて行ってや」と呟いた。わたしはその呟きを聞こえないふりをした。当たり前ではなかったのだ。

 

 販売職やOLを経て、日本語教師となった。やってみたかった仕事だ。毎日毎日、何かを売るだけの仕事より、ひたすら書類を作成する仕事より、刺激的で楽しかった。続けていると疑問を感じることもあったが、みないふりをすることも覚えた。

 

 その後結婚した。出産もした。仕事をセーブして、子育てをした。今は、子育てが少し落ち着き、日本語教師をしながらライターをしている。

 

 どうも今そこにあるものでだけで満足できず、何か新しいものを始めようとしてしまう癖があるようだ。そんなわたしは時々なぜか無性にタイ料理が食べたくなるのだ。別にタイ料理でなくてもいい。メキシコ料理でもいいのだ。



 縛り付けられると離れたくなる。そんなものなのだ。ただ、かつて母を縛りつけ、わたしが退屈で死にそうに思えた場所がこの世でもっとも美しく感じることがある。不思議なものだ。あんなに嫌って出て行こうとした場所に、帰りたいという気持ちすら芽生えてくる。それもまた、人生のカキフライなのかもしれない。

 

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