こんなことを呟きました。
昨日の中堅者研修での話。
— わかば@世界をひろげる日本語教師とライター (@saeriwakabaya78) 2019年10月20日
文型導入のために書かれた文章を
読ませて
これ、それが指すものとか
主述をとるとか
語彙の意味とか
文型の意味とか言わせるとか
段落を要約せるとか
その文章をよんで苦し紛れの意見言わせるとかする授業
いつまでするんですかね?
20年後もやるんでしょうか?
AIなんてもう普通に使われているし、
YouTubeのビデオもインスタグラムも
オンラインレッスンのプラットホームもどんどん出揃ってきた。
さっきまで「VRを全く知らない語学教師の皆さんへ」という
オンラインの勉強会に参加していました。
いやあ、100人満員御礼です。
教育がどんどん音をたてて変わっていっています。
時代って日本史年表みたいにみんなで進んでいくものだと思っていたけれど、自分で選んで自分の意志で進んでいくものなんですね。自分で進まないとずっと立ち止まるしかないのかも。VRは「自分の興味を外国によって深めていける」というところがいいなと思いました。面白かったです。#VRの冒険
— わかば@世界をひろげる日本語教師とライター (@saeriwakabaya78) 2019年10月21日
やる気さえあれば自分の国でだって、
なんなら家から1歩たりとも出ることなく
日本語の勉強ができるって言うのがこの時代です。
それなのに、今の日本語学校の授業って、
いつまで同じことを繰り返すんでしょうかね。
そんなことをしていたら、
多分日本語学校とかは、
存在意味がなくなりませんか??
だから、働く人の日本語に
力を入れようっていう話に
なるのもよくわかります。
じゃあ、もう教養としての、趣味としての
日本語教室はなくなりゆくんですかね?
オフラインの学習の場所は
なくなっていくんでしょうか。
なくならないとしたら、
それはどんな場なのでしょうか。
この時代に教室に集まって
日本語言葉を学習する意味ってなんですか。
去年くらいから、ずっと考えています。
なぜか?それを考えることなくしては、
この先日本語学校とか日本語教師が
生き残っていく道はないと思うからです。
それで私がしたい授業っていうのは、
やはり人と人が知り合える授業だと思っています。
自分の知らないところにこんな人生がある。
自分がここに来ることなければ、
この人に会う事はなかったし、
それはとても良かった。
そう思ってもらえる授業をつくりたい!
逆に言えば、それしか生き残る道はありません。
例えば、音楽なら、
ベートーベンの音楽をみんなで聴いて、
ベートーベンについて学んで、
ベートーベンの音楽から感じるものを
話す授業をしたっていいと思うのです。
例えば宮沢賢治の言葉でも
賢治が言いたかった事は何か
考える授業をしてもいいと思うのです。
そこから自分の人生に引き寄せて
何かを伝えること
そして、また耳を耳を傾けること
そういう場を作りたいと思います。